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思い出の選手たち~#50上田剛史~

当たり前だと思っていた。
青木がメジャーリーグ挑戦のために海を渡った。
そのあとのセンターは、上田剛史以外考えられなかった。

ただ、才能の塊の中から抜け出すには、技術や力だけでなく運が必要だ。
その運を引き込むには、我の強さが必要なのだろう。
上田のプレーには、我より和の方が強かった。
優しすぎるようにも感じた。

神宮でのクライマックスシリーズ、2塁走者の上田は森岡のヒットで本塁へ突入する。
自分のアピールをするためではない、武器である足でチームに1点を与えるためのものに見えた。
自分よりもチームの喜びが優先されていたように感じた。

やがて上田はベンチにいるのが当たり前になった。
プレーよりもパフォーマンスが目立つようになり、出場は試合後半に限られるようになった。

しかし、そんな中でも輝いた年があった。
記憶にまだ残る、2015年のリーグ制覇。
“攻撃型2番”と呼ばれた川端を活かしたのは、比屋根とともに1番を務めた上田だった。
そしてそのリーグ制覇のキーとなった試合、東京ドームでの石川と菅野の投げ合い。
ピックアップされる映像は、石川が菅野から打ったライト前への先制タイムリーだ。
しかし、このイニングにははもう1点入っている。
なおも1アウト1,3塁で打席に上田。
この場面、上田はセカンドゴロを打つ。
打球が転がった瞬間、拳を握っている。
狙い通りの併殺崩れでの打点だったが、凡打でプロの選手がガッツボーズをするのをあまり見たことはない。
ただ上田のプレースタイルをもっとも表していたのが、この打球だったように感じた。

自分のことよりチームの勝利。
そのための打撃、走塁、守備…そして道化だった。
道化はいつも泣いている。
それは周りを喜ばす心のうちに、辛さや悲しみを抱えているからだ。

その思いを抑えて、上田は徹底して道化を演じた。
そんなチームへの献身を演じた道化が去るのを、チームやファンが寂しく思わないわけがない。

ベンチ前、守りから戻る選手たちを迎える姿を来季は見られない。
1塁へ代走のために走る姿は別の選手になっていく。
試合終盤、守るためだけに外野へ向かう背中を追うことはできない。
当たり前のように神宮のグラウンドにいた人がいなくなるほど、寂しいことはない。

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思い出の選手たち~#83関根潤三~


「弱くても応援する価値のあるチーム」の理想像、関根潤三監督が率いたヤクルトスワローズは、そんなチームだったように思える。

関根監督時代は3年で、すべてBクラス。
優勝など夢のまた夢であり、神宮での勝ち試合が見られることも珍しかった時代。
現役メジャーリーガーのホーナー、ミスターの長男長嶋一茂の入団など話題はあったが、それだけで楽しめるわけがない。
では何があったのかといえば、このチームには希望があった。

その希望を生み出したのは、関根監督なのだろう。
本来、プロのチームは相手と戦い勝利することを目標としている。
しかし、それは力のあるチームの目標であり、足りないチームが目指せば、場当たり的な戦いにしかならない。

関根監督は、チーム内に戦いを持ち込んだ。
その代表格が、“イケトラコンビ”と言われた広沢克己、池山隆寛の両選手だった。
「2人に100三振ずつ」は許すといった関根監督。
広沢、池山がチームの勝利を度外視したプレーをしていたとはいわないが、メインの戦いは自分たちの成績だっただろう。
全打席本塁打を狙っているかのように、フルスイングをしていた。
対戦チームとの戦いではなく、個人成績を争っているのだから、試合展開、順位など関係ない。
それが、負けていても広沢の、池山の打席が終わるまで、スタンドにいようという気持ちにさせた。

本来の一軍の試合では、本末転倒かもしれない。
しかし、一軍の試合にでなければ、選手は育たない。
どれだけ三振を重ねても、関根監督は広沢、池山を外さなかった。
試合に出られるのは、最初こそうれしいだろうが、成績がでなければグラウンドに立つことが恐くなるもの。
ときには、ベンチへ下がりたいことがあっただろう。
ただ関根監督は、それを許さなかった。

関根監督就任1年目こそ池山は127試合だが、あとの2年は全130試合出場。
広沢は3年連続フル出場だ。
強いチームには、必ず軸がある。
それもひとりではなく、複数いるものだ。
コーチとして貢献したカープで、関根監督は衣笠祥雄、山本浩二の両輪を作っている。
スワローズでは、広沢、池山がこれに当たる。
やがてこの2人はチームの軸となり、90年代のスワローズの黄金期を支えることとなる。
関根監督も、負けていいなどと思っているはずはない。
ただ、目先の勝ちよりも、広沢、池山という素材に目をつけ辛抱をした。

この流れは時を経て、小川淳司監督に受け継がれていく。
関根監督時代、準レギュラーとして小川外野手は、100試合前後出場している。
この経験が、監督、編成トップに就いたところで、若い選手を抜擢し、辛抱を重ねて、レギュラーへと作り上げていくことにつながっていったのだろう。

育成の関根監督、黄金期を作った野村監督と相次いでスワローズに貢献した監督が亡くなった。
強かった時代ということもあり、野村監督のDNAに注目が集まるのは当然だが、現状のスワローズに当てはめた場合は、関根監督のスタイルの方が合うのかもしれない。
高津臣吾監督は野村監督時代に入団したが、池山二軍監督、小川GMには関根監督のDNAも流れている。

負けていいわけはない。
ただそこに希望があれば、ファンは待てる。
強くなる過程をみることができるのは、スワローズのような球団のファンがもてる特権だ。


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~追悼~野村克也監督


野球を真剣に観るようになったきっかけは、解説者野村克也氏の影響だった。
それまでは、チャンネル占有権のあるスワローズファンの父に付き合い、「勝った」「負けた」「打った」「打たれた」というだけの子供だった。
しかし、そんな少年だったわたしの目に飛び込んできたのが、画面上の“野村スコープ”だった。
まるで予言のように、次々に配球を当て、結果を低音の声で推測していった。
そしてそれは“なぜなのか?”ということも、しっかり説明してくれた。

今でも解説者はたくさんいる。
ただ野村克也氏は、異質なものだった。
経験論や技術論を多く語る人の中で、野村克也氏の解説は「心理」「仕草」という一般のファンにもわかるものだった。
例えば前の打席三振した選手が、繰り返したくないという心理から早打ちになる心理。
これは、少年野球をしているわたしにもわかることだった。
そうした入口から、徐々に打者の反応、一球一球に意味があることを知り、テレビの前で“野村スコープ”と対決し、次の球を予測して楽しむようになっていった。
そのころのスワローズは弱かったが、テレビ朝日での野球中継で「解説野村克也」という名前をみつけると、勝っても負けても試合を楽しむことができた。

そんな楽しい放送を父と一緒にみていたとき、「野村さんが監督になってくれればいいのに」とつぶやいた。
父は「この人は頭がいいから、監督になれないんだ」といった。
「どうして?」と聞くわたしに、
「偉い人が頭の良い人とは限らない。だから頭の良い部下を好まない人もいるんだよ」といい、「社会というのは、そういう不思議なところがあるもんだ」そう続けた。
まだ子供で、社会というものを知らなかったわたしには、難しい言葉だった。

しかしそんな父が亡くなった数年後、野村克也氏がスワローズの監督に就任した。
父の言葉を覚えていたわたしは、「スワローズの偉い人は、頭の良い人なんだろう」と思ったのと同時に、“これで強くなるかもしれない”と感じた。

89年のオフに就任した野村監督は、「1年目に種を蒔き、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせる」といい、90年5位、91年3位と順位を上げ、92年にリーグ制覇を遂げる。
その後、93年、95年、97年とリーグ制覇、日本一となり、スワローズは強いチームへと変貌していった。

応援し続けてきた弱いチームが強くなっていく過程をしっかり見られたのは、幸せなことだったと思う。
ただ野村監督の就任により、楽しめたのは強いチームになったからだけではない。
解説席では配球がメインだったが、監督になってからは策や選手起用の意味までを楽しむことができるようになった。

そのころインターネットはまだなく、情報のメインはスポーツ紙だった。
そこに前日の試合の策や選手起用の意味、考えが野村監督の言葉として掲載されていた。
書かれている内容は、解説者だったときと同じように、草野球しか経験がなくても、プレー経験のない女性でも理解できるものだった。
深い問題をやさしく伝えるは難しい。
単なるその時の感情で答えているのではなく、きっとどう伝えるかを話す前に考えていたはずだ。
それにより、少なくともわたしは野球の奥深さにハマっていった。
“なぜ?”を常に頭へ置くようになった。

また選手の特徴を伝える場合も、だれでもがわかる言葉を使った。
例えば捕手から内野、外野へとコンバートされ、超一流の守備を見せてくれた飯田哲也選手のことは、「捕手をやっていると足が遅くなる。あれだけの俊足はもったいない」と起用の理由を語った。
土橋勝征選手のことは、「肩が強いのと内野手だったからフォームが小さくコントロールがいい」という理由で外野の守備固めで起用し、「二塁手の肩が強いと併殺が完成しやすい」とセカンドのレギュラーとした。
“足が速い”“肩が強い”というのは、グラウンドの練習を見ているだけでもわかる。

野村監督は、スワローズファンになってもらいたいというだけでなく、野球を好きになってもらいたいという意識の高かった人のように思える。
野球の楽しさを伝えるためには、技術論だとプレー経験がないとわからない。
しかし野村監督の言葉は、観察、洞察により心理を推測し、準備をして臨むことの大切さを伝えていくものだ。
わかりやすく野球を伝える野村監督なくして、強く魅力のあるスワローズはできなかった。

それに、野村監督は自分主導でただ強いチームを作ったわけではない。
野村監督の野球には、随所に“情”がみられた。
エースと決めたら心中、これにより壊れてしまった投手もいたが、彼らは伝説となった。
ただ、勝つための非情さと、エースのプライドに懸ける情…これも野村野球の魅力でもある。

92年奇跡の復活を遂げた荒木大輔が、翌年9回のマウンドに立っていた。
神宮でのジャイアンツ戦、10-0でスワローズがリードした9回、ランナー3塁でスワローズの内野は前進守備を敷いた。
もう勝利は確実であり、1点を惜しむよりアウトカウントを増やすのが当たり前だが、荒木個人の完封のために、野村監督は前進守備を指示した。
荒木は、ランナーを返さず完封勝利を収めるのだが、これが彼のプロ最後の完封となる。
ID野球はデータ重視のために、その時代を知らない人は管理野球のように思えたかもしれない。
しかしデータ重視の中に、隠せない情が入っていたのが野村野球だった。
そのバランスが絶妙だったから、90年代のスワローズは強く、魅力的だったのだ。

“勝ち運”を握る野球の神様と、全身全霊で考え、育て、戦ってきた野村監督。
勝負付けが済んだのか、野球の神様のところへ旅立ってしまった。
その野村監督の指導を受けた人たちの多くが、現在監督、コーチとしてユニフォームを着ている。
まだデータをもとに、観察し想像力を働かせ、絶妙のバランスで情が入る野村野球の継承者は現れていない。
できればそれが、スワローズの監督であってほしい、そうファンとして願う。

スワローズだけでなく、野球の魅力を教えてくれた野村監督には感謝しかない。

2008年11/29に書いた想い出の選手たち・番外編~野村克也~

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思い出の選手たち~#2大引啓次~

心の強い人は、優しいという。
本当は不器用で、真面目に考え込む選手だったのかもしれない。
しかし、グラウンドではそんな姿を見せなかった。

空振りしたあと、打席を外し何度もうなづいた。
凡打で1塁を駆け抜けたあと、うつむきそうになりながらも、すぐに視線を上げていた。
そして調子の悪いときほど、フルスイングをした。
当てにいく、そんな気持ちを打ち消すようなスイングだった。

エラーをしても、うつむかなかった。
マウンドで投手に謝罪を済ますと、次の打球に対して受け身にならず前へ出た。

自分を棚に上げるのは、難しいものだ。
だれだって、失敗すれば逃げ出したい。
周りが気になり、目を逸らしたくなる。
しかし、彼はそうしなかった。
グラウンドでは、うつむかないことを決めているかのようだった。

最初は強がりだったかもしれない。
ただ続けていけば、それは強さだ。

後悔をしないのではない。
外に出さないだけだ。
弱みを見せない。
勝つための手段だ。
うつむかない。
自分の居場所を確保するための、プロとしての生き方だ。

開き直って、振る力をもっていた。
打球に向かって、攻める選手だった。
自分のミスのあとでも、味方を鼓舞することができた選手だった。
前の打者が死球を受けたあとの打席は集中し、快打を飛ばしグッと投手をにらみつけていた。

後悔、努力、考え込む姿…それらはすべて、グラウンドの外へ置いていた。
グラウンドで向けられる視線は、常に前だった。

最後まで諦めない選手だった。
チームが、ファンが落ち込んでいるときほど、力を発揮する選手だった。
漢を感じさせる選手だった。

その最期も諦めず待ち、求められていないと答えがでると、潔く去っていった。
涙はなく、夢のようだったといって見せた。
悔いはない…そういうかもしれない。
そんなことはないだろう。
ただ彼はそれを口にしない。
だれもが、弱気をみたくないと思っていることを、彼自身知っていた。
だから最期まで弱みを見せなかったのだ。
強く、優しい、漢の去り際だった。


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想い出の選手たち~#33畠山和洋~

各チームのそれぞれいる4番打者。
一発長打、ここぞでの一打…それぞれタイプはいるが、中心選手であることに変わりはない。
しかしスワローズの4番を張った男は、献身的な4番という珍しいスタイルを取った。
ノーアウトランナー1,3塁、バックホーム体制をとらない守備体形であれば、簡単にゴロを転がし、自分の打率や打点などを気にせず、チームのための1点を選んだ。
ただ一転、一発が欲しい場面では三振覚悟でヤマを張り、打ち損なうことなくスタンドへ運ぶパワーを見せた。

野武士のような風貌でありながら、名手宮本の守り方を観察し真似てファーストの守りも上手くなり、スワローズの内野陣を締める役割を担った。
練習嫌いといわれながら、晩年は少しでもチームの力になろうと、トレーニングに負荷をかけ故障を起こしてしまった。
それでも泥臭いところを見せず、ファームで汗を流し一軍を目指すしぶとさを見せた。

引退会見では笑いを誘ったが、セレモニーの挨拶では感極まった。
大胆に見えて繊細、強面でありながら心優しき主砲は、ボロボロの身体に担いだグリップのない独特のバットを置いた。
華やかな本塁打も、あえてゴロを打ちに行く姿もともに4番畠山の姿。
どちらもチームへの献身を体現していたものだ。
そんな4番がスワローズにいたことを、忘れずにいたい。
記録は単年でしか残せなかったが、チームへの愛情を言葉や普段の練習風景ではなく、打撃で見せた記憶に残る4番だった。

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